母、亡くなる
ところで、お正月に、実家の母のきんぴらを写真で紹介しましたが、母は、1月23日に天寿をまっとうして、彼岸の人になってしまいました。腰痛と心臓にはペースメーカー、それにパーキンソン病と病気のデパートみたいな母でしたが、私が6歳の時父が交通事故で亡くなり、母は、4人の子供を女手一つで精一杯育ててくれました。母は、事業の才覚があり、父が経営していた材木屋を父の弟に譲ってからは、タバコ屋を始め、酒屋の免許を取り、アパートを作りとできうる限りの能力を発揮して、子供を育ててきました。御用聞きに行くときも卵を持ち歩いて、ついで買いしてもらったり、かき氷屋さんをやるときは、自分で砂糖を鍋で煮て、甘露のシロップを作ったりしていました。創意工夫の人生だったと思います。
また、山を買ったときは、雑木林だったのですが、おにぎりを持って、子供四人を連れて山に行き木登りをして見せてくれました。あのたくましさには、子供心にも関心させられました。学校に行く前には、雑巾がけをして、朝ご飯を食べないと学校に行けなかったし、お酒の配達も、同級生が、中学のクラブ活動しているとき、配達用の自転車で、ビールの大瓶を20本1ケースをくくりつけ、金井国町から金井南町に配達したものです。中学生の女の子の私が、北中の坂を登って自転車を押して登って行くのはカッコ悪かったけど、食うための、母の有無を言わさぬ雰囲気で、私もやれたのだと思います。高校に入ったらすぐに原付のオートバイの免許を取るように言われ、それからは、バイクでの配達になりました。
私が、中学1年生の時、母も交通事故で脊椎分離症になり、以来40年にわたり、腰痛との闘いの中生きてきたように思います。それでも、子供が、大きくなってからは、旅行に出かけるようになり、四国旅行に始まって、国内旅行を各地に出かけ、海外もパリや、台湾や、ギリシャ、エジプトなど楽しんだようです。行く前には、図書館で、資料を借りてきて、読破して、その国の勉強をしてから出かけていたようです。子育てに、仕事に精一杯生き切った見事な人生だったと思います。今、私がここにあるのは、母のお陰です。お母さん、本当にありがとう。